ファイト・クラブ
- Aloysius' Rating: 8/10
1999年 アメリカ 139分
監督:デヴィッド・フィンチャー
出演:ブラッド・ピット、エドワード・ノートン、ヘレナ・ボナム・カーター、ミート・ローフ、じゃレッド・レト


まず、 「アメリカン・ビューティー」 に似ていると言えば言えなくもない。つまり現代アメリカ社会を背景にした個人の自己破壊願望についての話である。ただし「アメリカン・ビューティー」が幻想をまだ肯定的に扱い、かつ幻想と現実との間に橋をかけることで楽観的でもあったのに対して、こちらでは幻想自体がすでに破壊的で救いがない。つまり現実が壊れているから幻想に逃げ込むのではなく、現実をより明示的に破壊するための存在として幻想が登場するのである。あちらが郊外住宅の40男ならこちらは都市のコンドミニアムの住む30男ということで、世代が若返り、都市の中心部へ進むほど問題は深刻になるのかもしれない。公開は「ファイト・クラブ」の方が先だったわけだが、こうした映画がほぼ同時に、それもハリウッド・メジャーで作られるというのはちょっと興味深い現象である。
次に、ここに描かれている切迫した心理状態は、おそらくブレット・イーストン・エリスの 「アメリカン・サイコ」 の延長線上にある。物質文明に「汚染」された都市住民が外的な規定の反動として内面を空洞化させ、そこから生まれた飢餓感を満たすために野蛮へと走るという構図である("SLIDE!")。「アメリカン・サイコ」は80年代末を舞台にウォール街のビジネス・エリートを主人公にしていたが、こちらでは自動車会社のリコール調査員というただのサラリーマンにやらせているわけで、これは問題の裾野が広がっているということを意味しているのかもしれない。ただし「アメリカン・サイコ」に比べると「ファイト・クラブ」は多くの点で理解しやすい筈である。まず前者は主人公を心理状態に対して無自覚にするという冷酷な手法を採用したためにひどく高踏的なテキストとなってしまったが、後者は対立する人格をブラッド・ピットという形で具体的に与えることによって方向性を明らかにした。そしてその対立人格が実は内包されているという事実を明かすことによって、何がどう壊れていたのかを具体的に示すことに成功しているし、また問題となっている衝動も鮮やかに説明されている。「屹立状態」にある個人的な「筋肉」が現代社会においてまったく無力であるという事実への苛立ちである。「筋肉」が有効であることを確認する唯一の手段は自分自身しかない。自らを殴り、自らの暴力の痕跡を自らの肉体と精神に刻み込み、この外形的な自己破壊によって自己を再確認するのである。
この映画のいちばん面白い部分は、こうした自己破壊=再確認の行為が現代アメリカ社会の「癒し」のモチーフと並ぶことによって共同体=ファイト・クラブを構築し、共同体が前進することによって衝動の第一原因であった疎外が再浮上するという図式である。「軍隊」の出現と同時に話はこの堂々巡りにもぐり込み、暴動する衝動=ブラッド・ピットの口からはさらに過激な破壊への願望、つまり狩猟文明への回帰が語られることになる。自分をいかに破壊しても未来へのビジョンを得ることはできなかったのだ。だからこの映画の結末では主人公に眺望を与えてハッピーエンドにするために、いくつもの高層ビルを破壊しなければならなかったのである。

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