仕事と屁(未完)
一つしようが二つしようが屁は屁でしかない。
二つ以上の屁を屁々と呼ぶことはないし、まして屁たちと呼ぶこともない。
これはおそらく、屁が単独でしか存在しえないことを意味しているのであろう。
我々は時として過去を振り返り、楽しかった日々を、あるいは悲しみに暮れた日々を思い出すが、そうできるのは現代の日本語が連続性のない複数の一日を日々と呼ぶのを慣習上許しているからである。この慣習はきわめて支配的であるため、「楽しかった日々」を「楽しかった日」と表現した場合、それが過去に存在した複数の「楽しかった日」を一般的かつ総括的に指しているのだとはなかなか解釈してもらえない。
日においてすらそうである以上、屁々とは呼べない屁を過去において複数回した経験があろうとも、「屁をした」という表現は一般的かつ総括的な意味を持ちえないのである。
したがって、すべての屁は単時的に存在している、と言うことができる。幾何学でいう点座標であり、複数を持ちえないので線となることは決してない。察するに屁を好ましいと思うひとはきわめて少ないので、そのようなものが線によって表現された世界を誰も想像したくないのであろう。言語の特性は民族共通の願いによって与えられるのである。
そこで、こう考えることができる。
経験に照らせば屁は甚だしく空疎であり、また上述のように時間線においても著しく脆弱であるが、これは我々が屁にまったくの価値を認めていないからである。
仮にここに世界でたった一人、屁に重大な価値を認めているひとがいるものとしよう。いかなる価値を認めているのかはここでは重大ではないし、筆者も気にしたいとは考えていない。それはそのひと個人の問題である。そしてそのひとにとって屁が重大な価値を持つ以上、実体としての屁が不快な音とともに空中に消え去る運命のものであっても、概念上の屁は消え去るどころか変わらずに居座り、堂々とその存在を誇示することになろう。そのひとは我々の目には決してありえない屁々を目撃しているのである。それは時間線を螺旋状に遡っていく屁の連なりである。それはかぐわしい複数の屁である。毎分毎秒の放屁を意味しているのではない。一般的かつ総括的な放屁の経験を意味しているのである。このひとは叫ぶ、見よ、これが屁々である、おまえたちにこれが見えるか。
いや、いったい誰がそんなものを見たがるのか。
ところが何かの間違いがあると、これは俺にも見えるわたしにも見えるという話になる。認知の拡大は概ね根拠を欠いていると筆者が考えているからである。そして叫びは民族共通の叫びとなり、叫びが願いとなって国語に反映されれば二つ以上の屁はたちまちのうちに屁々となり、さらに市場的価値へと転化されれば可愛らしい屁たちがお店でお待ちしている旨の広告を見ることになる。
ここで筆者はこう考える。
なぜ我々にはまとまった複数形の規則が存在しないのか。
日々は日の複数形ではない。ただ繰り返しているだけである。これはたとえばゼカーの複数形がゼカーゼカーであるのとよく似ている。ちなみにゼカーは旧ソ連時代の強制収容所における囚人を意味する隠語である。つまりきわめて過酷な環境で発生した言語的な堕落、あるいは獣化の産物である。それと同じような方法で、なぜ我々は複数を表現するのか。我々の言語は野蛮なのだろうか。
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