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『四畳半神話大系』 / 森見登美彦(太田出版,2005/1/5) |
『ブルックリン物語』というアメリカ映画がある(監督:スタンリー・ドーネン、1978年)。映画の前半は失明した妹の手術費用を捻出するために青年がボクサーとなって戦い、後半では死期を間近に控えたレビュー劇場のオーナーが最後のショーのために困難と戦い、つまり、まるで関係のない二本の映画が一本の映画に同居しているという形になっていて、なぜそうなのか、というと、これはつまり昔のB級映画二本立てを一本の映画でお得にやってしまおうという趣向になっているからで、だから往年のB級映画らしく二本の映画のあいだで一つのセットが露骨に流用され、配役は違うけれど出演者はまったく同じで、そうして確信犯的に作られた二本の二流映画のあいだには同じ出演者による安っぽい戦争映画の予告編まで入っているというおちゃめで楽しい映画である。けっこう面白いのにビデオは見かけたことがない。 で、それはそれとして『四畳半神話大系』である。ここには著者の前作『太陽の塔』と同様に自意識過剰な若者が語り手として登場し、自らの四畳半生活を語り、友人を語り、恋に焦がれて妄想に耽る。そして語られるままに京都の町が不思議な活気をともなって現われ、悪友が登場し(悪のためにはほとんど目的を選ばない)、同じアパートの二階には謎の怪人が登場し、怪しいサークルや凶悪無比の秘密結社が登場し、究極のタワシに関するいかがわしい蘊蓄が披露され、怪しい老婆は占いをおこない、エキセントリックな乙女が出没し、神経逆なでものの挿話であったが、小さなクマのぬいぐるみは野蛮な学生の手によって鍋でぐつぐつと煮込まれてしまう。 特徴的なのは作者がここで選択した語りの趣向である。『四畳半神話大系』はそれぞれ「四畳半恋の邪魔者」「四畳半自虐的代理代理戦争」「四畳半の甘い生活」「八十日間四畳半一周」と題された四話から構成されているが、語り手は同じ、登場人物も同じ、使われている道具立てのたぐいも同じであるにかかわらず、全部違う話なのである。語り手が起点で異なる選択をおこなった結果として出現した四つの並行世界を扱っていると説明すればわかりやすいが、なにしろ作者が作者なのでそれほど単純なことにはなっていない。いくつかの事件は全体を通じてオーバーラップしているし、語り手の立ち位置は話によって微妙に変わるので、見える角度も変わってくる。実によく考慮されたストリップティーズになっているのである(ここでいうストリップティーズはモリス・ザップ教授の「文学はストリップティーズだ」理論に基づいている。詳細はデヴィッド・ロッジ『小さな世界』を参照されたい)。そしてなお驚くべきことに、このようなアクロバティックな手法を選択する一方、作者はそこに盛り込む情報量をまったく手加減していない。少なからぬ登場人物、少なからぬキーワードを各話に欠かさず盛り込んで、そうすることによって破綻を招くどころか確実な効果を上げているのである。たいしたものだと言わざるを得ない。もちろん趣向もさることながら、『太陽の塔』でこちらを思わずうならせてくれたあのテクストは健在である。テンションは高く、品位も高い。そして言うまでもないが、悲しいまでにばかばかしい。傑作である。 ちなみにわたしはデビュー作以来、ワープロのコピー・ペースト機能を悪用しているということでしばしば非難を受けてきたが、遂に上手が現われたことで実を言えば喜びを隠せない。森見氏は本作の執筆において明らかに、そして執拗にコピー・ペーストを繰り返しており、それだけではない、コピー・ペーストしたものをまたコピー・ペーストしているからである。 |
(2004/12/12)
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