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『太陽の塔』 / 森見登美彦(新潮社,2003/12)

一人称の語り手「私」は京都大学の五回生で事実上の休学状態にあり、所属サークルなどからも距離を置いて交友を狭め、崩壊寸前のボロアパートに一角を占める自分の部屋に拠点を置いて、言わば孤高の状態で「水尾さん」の研究を進めている。「水尾さん」というのは「私」の「彼女」であったらしいのだが、その関係は「水尾さん」の側から断たれてすでに久しい。クリスマスの贈り物に太陽電池で動く招き猫なんかを選んだら、もしかしたらそういうことも起こるのであろう。

そういうクリスマスから一年が経過して再びクリスマスが近づいた頃、「水尾さん」を観察しようとたくらんだ「私」は愛用の自転車「まなみ号」を飛ばして町へ下り、「水尾さん」の代わりに「植村嬢」と遭遇する。下級生の目の大きな女の子と推定されるが、どうやらその目に見つめられると「私」はひどく萎縮する傾向があるらしい。「水尾さん」との遭遇に失敗した「私」は場所を仕切り直して「水尾さん」の住むマンションの近辺に移動して善良な若者の偽装を選び、そこで「水尾さん」の帰宅を待ち構えていると今度は「水尾さん」の代理と自称する男が現われて、「私」のストーカー行為をなじりはじめる。「私」はこの男に果敢に立ち向かっていくが、いささか狼狽するところもあったのであろう、撤収にあたって「まなみ号」を回収しそこねるという失態を演じる。

「私」は男の学部と学年を推定し、友人を介して調査を進め、調査を請け負った友人は男の正体を突き止めるために尾行をおこない、男が「私」を尾行しているという事実を持ち帰って報告する。「私」のアパートは男「遠藤」の知るところとなり、「遠藤」は「私」に対して明らかに脅迫的な意図を持って手紙を送り、「私」もまた「遠藤」に対して手紙を介して反撃を加える。そして『怪傑ズバット』の耐久上映会があり、恐るべき京大生ハンターとの戦いがあり、そうしているうちに意外な事実が判明し、自室に戻った「私」は「おのれ遠藤」と「遠藤」をののしり、「まなみ号」は回収され、叡山電車は「水尾さん」を乗せたままどこか見知らぬ場所へと進んでいく。

最初から最後まで、ほとんど笑って読んでいたけれど、察するに青春というのは痛いのであろう。青春を知らないわたしにはこの痛さがわからないのだが、傍から見ている分にはこれはたいそう面白いものである。いしいひさいちの「バイト君」と比較する批評を見たが、たしかに通じるものはあると思う。ただ、東淀川大学と京都大学の違いなのか、こちらの方が神経衰弱の度合いが強いのではないか、という気がした。幽霊部員化した会計係が自室の前に幽霊のように現われて、払っても払っても未払いの部費を請求し、追い払おうとすると鉄道唱歌を歌いはじめるという光景はなまじな神経衰弱からは生まれてこないと思うのである。

テキストはよくデザインされ、洗練されている。叡山電車、ゴキブリキューブ、太陽の塔といったギミックの使い方も面白い。特に叡山電車の走りというのが、どこか幽玄で美しい。とはいえ、何か波打って進んでいくような明らかな物語があるわけではなくて、語り手の「私」を中心に持てない仲間四人組がとんがったりくぼんだりしている日常を一人称という形式を最大限に活用して、つまり虚偽に満ちた口調でつづられている。韜晦し、虚勢を張り、事実を曲げ、間違っているのはおまえらだと居直りながら、真実の姿がたまに透けて見えるあたりがなんともおかしくてかわいらしいのである。


(2004/01/28)
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