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『ラス・マンチャス通信』 / 平山瑞穂(新潮社,2004/12/20) |
一人称の語り手に対して世界が際限もなくあらがっていく。どうやら少年に毛が生えたくらいのこの年若い語り手がよくあるように自意識を抱えた一人の若者としてとして全世界にあらがうのではなく、語り手のともすれば途切れがちな自意識に対して世界が悪意を込めてあらがっていくのである。そうして出現する悪意の表象は畳の上を這って姉を襲う兄であり、性的な抑圧とその直接の代価としての性的な誘引であり、レストランの厨房で発見される性行為の残滓であり、強要された筆下ろしとその結果が語り手にもたらした道徳的な混乱であり、邂逅した姉と非人間との結合である。語り手は怒りと苛立ちを内包しているが、本質的に無力であることを自覚しており、なんとか世界と折り合おうと努力している。そして折り合うことにしくじると、ぶち切れることになるのである。 生存状態における居心地の悪さ、収まりの悪さをよくにじませているという点でこのテキストは実に優れている。読みながらポール・セイヤーの『狂気のやすらぎ』を思い出した。重度のカタトニーで横たわったままの男の一人称で記された小説である。周辺に置き去りにされた人物が世界に対して主体的に関わっていく点で二つの小説はよく似ているが、違うのは『狂気のやすらぎ』の「わたし」が諸々の関わりを内的世界で想起しながらただ溶けていくのに対して、『ラス・マンチャス通信』の「僕」は物理的な「攻撃力」というアビリティを備えていることだ。つまりカタトニーで横たわっているわけではないので、「僕」は最後に世界と対決して成長しなければならない。意外なまでに直線的な結末は好みが分かれるかもしれない。 |
(2005/01/22)
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