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『天使』『雲雀』 / 佐藤亜紀(文藝春秋,2002/10,2004/3)

『花嫁』:19世紀末のウクライナ西部。馬泥棒のせがれグレゴールは親父に引きずられて悪の道へと進んでいくが、おそらくは向上心にそそのかれて、あるいは親父の小心さに愛想を尽かして、親父の一党とたもとを分かつ。そして密輸業者となって裏の世界への足がかりを独自に作り、それなりの評判を得ることに成功する。やがてグレゴールは町でヴィリという名の女と出会い、激しく惹きつけられていくが、女にはすでに夫があって、息子があった。(『雲雀』所収、初出:別冊文藝春秋2003/5)

『天使』:『花嫁』の結末からおよそ10年後。ブダペストで養父とともに赤貧のなかにあったジェルジュは養父の死後、顧問官と名乗る男のもとへ引き取られ、ウィーンに暮らして紳士として振る舞うための訓練を受ける。成長したジェルジュは特殊な能力を開花させて顧問官の配下で働く一人となり、戦争前夜にはペテルスブルクに潜入して無政府主義者の愛人をつくり、第一次大戦勃発の後にはボスニアへ潜入してセルビア民族主義者の陰謀をくじく。そして敗色濃厚な大戦末期が近づいてくると、オーストリア単独講和を目指す水面下の動きに深く関わっていく。(『天使』所収、初出:別冊文藝春秋2002/3,5,7)

『王国』:『天使』3章の単独講和事件のあと。1917年の東部戦線、クリスマス前。オットーとカールのメニッヒ兄弟はオーストリア軍の塹壕ですでに三年を過ごしていた。戦場での生活がすっかり馴染んだ二人はある日、その週の給料を受け取ったあとで居酒屋に立ち寄り、そこで奇怪な場面に遭遇する。そして自軍に捕えられた二人は脱出して無人となった前線を突破し、そこでさらに奇怪な場面に遭遇する。二人の前では帝政ロシアの遺物が怒りとともに暴走を始め、二人の背後ではオーストリアの諜報機関がひそかに動き始めていた。(『雲雀』所収、初出:別冊文藝春秋2003/9)

『猟犬』:1921年のハンガリー。すでに退位したハプスブルク家のカール一世はハンガリー王の地位をねらってクーデターをたくらみ、ジェルジュはそれに呼応する内部の動きを封じるために、単身ブダペストへ派遣される。だがブダペストでは一人以上の敵がそれぞれの仕方でジェルジュを迎え、狂犬の異名を持つ一人から不意打ちを食らったジェルジュはかつてない危機に陥る。(『雲雀』所収,書き下ろし)

『雲雀』:1928年のウィーン。顧問官はすでに亡く、その配下にあった機関は大きな曲がり角を迎えている。そしてジェルジュはそこから足を洗い、失われた自分の時間を取り戻すために一度は封印をした感情を解き放つ。だが、愛する女には夫があり、その夫はジェルジュの敵であり、ジェルジュがその手で愛を握り締めるためには、まだいくらかの清算を必要とした。(『雲雀』所収,初出:別冊文藝春秋2003/7)


登場人物:

グレゴール・ロマヌィチ・エスケルス

ウクライナの馬泥棒の息子。密輸業者、誘拐請負人。パリでライタ男爵を名乗り、各国政府機関を顧客にフリーランスで活動をおこなう。ジェルジュの父親。(『花嫁』『天使』)

ゼルカ

グレゴール・エスケルスの相棒。(『花嫁』『天使』)

ジェルジュ(ゲオルク・エスケルス)

グレゴール・エスケルスの息子。枢密顧問官スタイニッツの下で諜報活動に従事する。ザヴァチルの殺害に関与。(『天使』『王国』『猟犬』『雲雀』)

アルトゥール・フォン・スタイニッツ

オーストリアの諜報機関の長。枢密顧問官。男爵。ジェルジュの後見人、上司。(『花嫁』『天使』『猟犬』『雲雀』)

ルドルフ・ケーラー

オーストリア陸軍将校。ジェルジュの友人。(『天使』『王国』『雲雀』)

ヨーゼフ・フェルディナント

オーストリアの大公。スタイニッツの監督者。(『天使』『猟犬』『雲雀』)

ヨアヒム・フォン・ディートリッヒシュタイン

伯爵。スタイニッツの後継者。ギゼラの夫。(『天使』『猟犬』『雲雀』)

ギゼラ・フォン・ライバッハ

フェルディナント大公の姪。のち、ディートリッヒシュタインの妻。(『天使』『雲雀』)

ヤーコプ・ラッケンバッハー

ウクライナ西部、ブロディの町の織物工場の会計士。ヴィリの夫。(『花嫁』)

ヴィリ(ラッケンバッハー夫人)

ヤーコプ・ラッケンバッハーの妻。ダーフィット及びジェルジュの母親。(『花嫁』『天使』)

ダーフィット・ラーケンバッハ(ラッケンバッハー)

ラッケンバッハー夫妻の息子。外務省職員。(『花嫁』『天使』)

コンラート・ベルクマン

スタイニッツの部下。ジェルジュの監視役。メザーリとの戦いで、ペテルスブルクで死亡。(『天使』)

アルカジーナ

ロシア人。無政府主義者。ジェルジュの最初の愛人。(『天使』)

イェレーナ

ベオグラードを拠点とするオーストリア側の工作員。(『天使』)

レオノーレ

ジェルジュの愛人。(『天使』)

エルヴィン・ラウテンブルク

オーストリア陸軍元帥。レオノーレの高齢の夫。(『天使』)

フローラ

画家。オーストリアの工作員。ジェルジュの愛人。(『天使』)

イヴァナ

スタイニッツの家政婦。(『天使』)

マドモワゼル・ランクレ

ジェルジュの家庭教師。(『天使』)

ローベルト

スタイニッツの部下。(『天使』)

オットー・メニッヒ

オーストリア軍兵士。のち、ジェルジュの部下。(『王国』『雲雀』)

カール・メニッヒ

オーストリア軍兵士。のち、ジェルジュの部下。(『王国』『雲雀』)

ファルカシュ

ジェルジュの部下。ベルリンでボリシェビキの機関員による襲撃を受ける。(『雲雀』)

オレグ

ロシア軍兵士。のち、ディートリッヒシュタインの部下。(『王国』『雲雀』)

アントン・ペトラシェフスキー

オーストリアの工作員。ロシアへ潜入中、勝手に失踪。(『天使』)

ポルディ

オーストリアの連絡員。(『天使』)

ドローネー

オーストリアの工作員。(『天使』)

ヤノシュ

オーストリアの工作員。(『猟犬』)

シュテファン・ヤルノヴィチ

弁護士。ジェルジュにクロアチア語の教授をおこなう。(『天使』)

アルカジーナ・ニコラエヴナ

グレゴールの母親。レシチェーエフ氏の家政婦。(『花嫁』)

レシチェーエフ

アルカジーナ・ニコラエヴナの雇い主。(『花嫁』)

アレッサンドロ・メザーリ

小柄な殺し屋(『天使』)

カルージヌィ

ロシア軍将校。東部戦線で大胆不敵な反乱を企図。(『王国』)

ラースロー・イェラチ

オーストリアの諜報機関のブダペスト支局長。ハンガリーの独立時に退職。帝政支持者。(『猟犬』)

キニジ

イェラチの後任。(『猟犬』)

ザヴァチル

セルビア陸軍大佐。民族主義者。(『天使』)

マルコ・カラヴィッチ

セルビア陸軍将校。ザヴァチルの副官。(『天使』)

ヨヴァン・ウティエシュニチ

ボスニア人。ザヴァチルの部下。のち、イェラチの部下。別名「狂犬」。(『天使』『猟犬』)

マレク

フェルディナント大公の護衛。(『天使』『猟犬』『雲雀』)

クレムニッツ

ディートリッヒシュタイン伯爵の護衛。(『天使』『猟犬』『雲雀』)

ヴァシレフスキ

オーストリアの伯爵。ロシアに内通。(『天使』)

エルデディ

オーストリアの伯爵。皇帝侍従長。(『天使』)

アイゼンベック

ウィーン駐在ドイツ大使館防諜担当者。(『天使』)

ヘーレンファーン

ドイツの諜報機関員。(『天使』)

フォン・ヤゴウ

ベルリン警視庁長官。マタ=ハリにも指令を出していた。(『天使』)

カール一世

オーストリア=ハンガリー帝国皇帝。1918年退位。(『猟犬』)

ツェルニン

伯爵。皇帝の相談役。(『天使』)

ホルティ

ハンガリー王国摂政(1920-44)。(『猟犬』)


「感覚」について:

『天使』をはじめとする一連の作品には特異な能力を備えた人物が登場する。その能力はふつう「感覚」と呼ばれており、一万人に一人くらいの割合で発現することになっている。「感覚」を備えた人間は五感の外側に認識の輪を備え、自分を包み込む感覚の束をまるで結界のように広げたり、他人の頭の中を覗き込んだり、記憶や知覚を書き換えたり、サイコメトリーをしたり、あるいは相手を狂気の果てに押しやったり、といったことが可能になる。比べてみるとデビッド・クローネンバーグの初期の作品『スキャナーズ』を思わせるが、『天使』のほうが役割上もう少し攻撃的にデザインされているように見える。作中ではこの「感覚」の使われかたが丹念に描写されていて、その透徹ぶりと気色の悪さから超能力の表現に関するテクストとしては最上級の水準にある。

組織について:

「感覚」の保持者たちは政府の諜報機関に採用されて現場へ送り込まれる。そして与えられた能力を互いに使って一般人にはわからないところで頭を開けたり頭の中を焼いたり視野を焼いたり欺瞞情報や頭痛を与えたりと陰湿な戦いを繰り広げる。とはいえ、ここで特徴的なのは登場人物の行動規範で、何かでもめ事が起こっても手打ちができなくなるような一線は誰も越えようとしない。どれほど敵対していても、必要ならば馴れ合うための努力は惜しまないのである。自滅もしない、皆殺しにもしない、そのかわり、みんなで生き残る、というきわめて健全な、あるいは官僚的な指向性が多くの登場人物の行動に現われていて、手打ちに向かって状況を動かしていくプロセスがストーリーの骨格を占めることも珍しくはない。これは作者が人間の行動を人間の習性に照らして忠実に描こうとしたためであろう。

背景について:

例によって、作者は本文中で時代や土地などの背景説明をほとんどおこなっていない。これは背景への説明的な言及がテクストの品位を損なうからである。実際のところ、作品を楽しむうえでは、それがいつ、どこで起こった話かというのは必ずしも重要なことではない。それでも一応、こちらでわかる範囲で補っておくと;
『花嫁』:現在のウクライナ西部、いわゆるガリツィア地方が舞台になっている。この一帯は19世末当時はオーストリアの領土で、作中に登場するブロディはレンベルク(現在のリボフ/リヴィウ)からロシアへと至る鉄道の重要な経由地点であった。ユダヤ人が多いのはロシアでのポグロムを避けた人々がこの鉄道を使って脱出してきたからである。そういう国境地帯なので、あっちのスパイやこっちのスパイがうろうろしているという状況が出現する。
『天使』:日露戦争が始まる少し前まで、ジェルジュはマジャール人の養父とともにブダペストの倉庫で暮らしている。その後、顧問官に引き取られて教育を受け、ギゼラとのことで問題を起こして(結局、手が早いのであろう)事実上の所払いとなってペテルスブルクに到着するのが1912年の暮れ。ここでジェルジュが世話になるアルカジーナは無政府主義者であって、ボリシェビキではない。ジェルジュの勤め先がボリシェビキの印刷工場なのである。だからジェルジュはアルカジーナとボリシェビキの両方から搾取されていたということになる。ジェルジュはペテルスブルクで一年以上暮らしたあとでウィーンに戻り、1914年の夏、第一次世界大戦勃発前夜に顧問官の命令でベオグラードに潜入、セルビア軍の義勇兵となってザヴァチル大佐に接近する。セルビアの軍人を中心とする民族主義結社「ブラック・ハンド」の一員で、皇太子フランツ=フェルディナント暗殺事件の背後にいて、どうも頭の中には陰謀のことしかなかったようで、だから『天使』でも陰謀しかしていない(ちなみに翌1915年にはセルビアは完全に占領されて、地図から消えてしまう)。ウィーンに戻ったジェルジュは1917年1月に単独講和工作に関与し、大戦末期の1918年初夏、ジュネーブ経由でパリを訪れ、ここで初めて父親と出会う。
『王国』:1917年暮れの東部戦線が舞台になっている。作中に登場する地名タルノポル(タルノポリ)はガリツィア東部で、当時のオーストリア・ロシア国境のオーストリア側にあった。
『猟犬』:1921年秋のブダペスト。退位した皇帝カール一世がハンガリーでの即位を望んでクーデターを起こす、というのは本当の話で、実は同じ年の春にもやって失敗している。
『雲雀』:1928年の春から夏。


(2004/03/05)
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