女優の話 シャーロット・ランプリング 中学二年の時に劇場で「未来惑星ザルドス (1974)」の予告編を見た。そしてその破天荒なイメージと壮絶な空間処理に思わず魅せられ、続いて監督ジョン・ブアマン自身によるノヴェライズを本屋で発見して狂喜し、早速買って家へ戻り表紙を開いたところで目が止まった。そこにはシャーロット・ランプリングが主演のショーン・コネリーと並んで写っている写真があったのである。目が止まったのはショーン・コネリーのせいではない。シャーロット・ランプリングの並外れた美しさのせいであった。淡いブルネットの髪を雑に跳ね上げたシャーロット・ランプリングが、そのほとんど透明に近い灰色の目でこちらを見ていたのだ。思わず頭がぼーっとなった。こんな経験は初めてのことで、たぶんこの一枚の小さな写真で、わたしは美というものが目に見える事実として存在することを知ったのではないだろうか。 映画が公開されると勇んで見に行った。そして感動して帰ってきた。映画の中のシャーロット・ランプリングはもちろん美しかったが、残念ながら最初に写真を見たときほど美しいとは感じなかった。ジョン・ブアマンが人間を美しく見せることに関心を持っていなかったからではないかと考えている。この映画はハクスリーの「素晴らしき新世界」に始まるいわゆるディストピア(またはアンチ・ユートピア)物の定式、つまり閉じた世界とそこに侵入する野蛮人という枠組みを意識的に採用し、その上で両者の対立構造を抽象化されたセクシャリティで説明するといういささか過激な作りになっていて、登場人物は人物というよりは記号に近い。改めて見るとやってはいけない象徴主義の見本のような映画だが、それでも見る度にラスト・シーンで涙を流してしまうので最初の感動が子供だましの偽物だったわけではないのである。 シャーロット・ランプリングの美しさを見るならば、ルキノ・ヴィスコンティの「地獄に堕ちた勇者ども (1969)」の方がいい。出演シーンは少ないが、白いドレスを身につけて悲しみに浸って足早に歩く様がいかにもはかなげで、実に美しい。「愛の嵐 (1973)」のシャーロット・ランプリングも美しいが、実を言うとああいう扱い方は好みではない。わたしの目にはこのエキセントリックな女優をファム・ファタルに仕立て上げるためのやらせのようにも見えるのである。それよりも「スターダスト・メモリー (1980)」で水をがぶ飲みして勝手にふてくされているシャーロット・ランプリングが好きだったりする。察するに「愛の嵐」は女性にとって都合のいいシャーロット・ランプリングであり、一方、「スターダスト・メモリー」は男にとって都合のいいシャーロット・ランプリングなのであろう。片やリリアーナ・カヴァーニ、片やウッディ・アレンであれば、いよいよそういうことになるような気がする。 映画産業の大勢は男が占めていることから、必然的にシャーロット・ランプリングの出演作の大半は男にとって都合のいい方で占められることになる。しかしだからと言ってハードボイルド映画の謎の女をやらせておけばいいというのでは、あまりにも想像力が乏しいのではないだろうか。所詮はB級女優ということになるのかもしれないが、素材としての桁はそこらの女優とは違った筈だ。そこで個人的な趣味に基づき、素材の味を最大限に引き出した、言わばシャーロット・ランプリング映画の代表作を一つあげるとするば、やはり「フォックストロット(1975)」なのではないだろうか。 第二次世界大戦の勃発に先立ち、ピーター・オトゥール扮するルーマニアの貴族が妻とともに大西洋上の孤島に移住する。島には友人兼使用人のマックス・フォン・シドーが先行していて、仮の住まいに真紅の巨大なテントを用意している。孤島に孤立した中、戦争が始まり補給は途絶え、怪しい使用人マックス・フォン・シドーは貴族の妻に色目を使い、夫は猜疑心にもまれ妻は心を引き裂かれ、やがて破局が、という話で、シャーロット・ランプリングはピーター・オトゥールの妻という役であった。とにかく配役は豪華で美術はひたすらに趣味に走り、いったいこれはなんだ畜生めというメキシコ映画なのだが、特にシャーロット・ランプリングの元歌姫で今は貴族の二番目の妻という設定が実にうまい。祝福されていないのである。単なる謎の女でもなく、ファム・ファタルでもなく大将軍コンスエラでもなく、受け身の向上心のようなものを感じさせるところがこの映画のシャーロット・ランプリングの魅力なのかもしれない。しかも抜群に美しいのだ。その美しいシャーロット・ランプリングの太腿で不気味なマックス・フォン・シドーが葉巻を巻くシーンなんかは、あまりのいかがわしさに思わず息を飲んだものである。 追記:大島渚の「マックス、モン・アムール (1986)」は死んだって見ないぞ。 ジュヌヴィエーヴ・ビジョルド まず白状してしまうと、実は「1000日のアン (1969)」を完全には見ていないのである。この出世作を見ないでジュヌヴィエーヴ・ビジョルドについて何かが語れるのかという多少の疑問を自分自身でも感じないわけではないのだが、こういうことはたまにあるので(たとえば「大脱走」を最初から最後まで通しで見たことが一度もない、とか)気にしないことにしている。 ジュヌヴィエーヴ・ビジョルドはシャーロット・ランプリングとほぼ同時期にわたしの前に出現している。つまりあのセンサラウンドが腹に染み入る「大地震 (1974)」で初めて見たことになるのだが、こういうギミック入りならウィリアム・キャッスルあたりが監督した方がよほどにましであったのではないかと思えるほどの大駄作で、チャールトン・ヘストンの顎くらいしか記憶に残っていない。ただ、よく思い出してみるとこの映画のジュヌヴィエーヴ・ビジョルドはわたしが見ている出演作の中でもいちばん痩せていて、その分、不思議なほど顔が長くて端正に見えたような気がする。 この小柄でちんくしゃ顔のかわいらしい女優の姿は、「大地震」の翌年くらいに「ベルモンドの怪盗二十面相 (1975)」でたっぷりと拝ませていただいた。フィリップ・ド・ブロカのドタバタ・コメディである。ジュヌヴィエーヴ・ビジョルドは表情が豊かで、しかも怒っていても歯を食いしばっていても何をしていてもかわいい顔になるという特徴を備えていて、そういう意味では希有の女優だと言ってもいいのではないだろうか。口を開けた小犬にちょっと似ているのかもしれない。だから喜ぶと本当に幸せそうな表情になるので、仮に映画の出来が悪くても許そうという気持ちについなってしまう。こういう都合のいい観客ばかりだったら、デ・パルマも「愛のメモリー (1976)」のラスト・シーンでカメラをぐるぐる回す必要はなかったのではあるまいか。 「カリブの嵐 (1976)」のジュヌヴィエーヴ・ビジョルドは少々学芸会じみていたが好きだった。「タイトロープ (1984)」のジュヌヴィエーヴ・ビジョルドは健全なキャスティングの結果というよりもクリント・イーストウッドの個人的な趣味が先行しているように見えて好きではなかった。驚いたのはデビッド・クローネンバーグの「戦慄の絆 (1988)」で、わたしにはどうにもこれがミスキャストのように思えてならないのである。なぜジュヌヴィエーヴ・ビジョルドなのだろうか。ジェレミー・アイアンズ(兄)とジェレミー・アイアンズ(弟)の間を結ぶ「内臓」をジュヌヴィエーヴ・ビジョルドを食いちぎるという幻想シーンがあったが、食いちぎろうとしているというよりも、ただ、かぷっと噛んでいるように見えたのである。これでよかったのか? 残念ながらわたしにはよくわからない。映画が傑作なのは間違いないし、ジェレミー・アイアンズの異様な演技を見ているだけでも十分堪能できるので疑問は疑問にとどめておく。 実はジュヌヴィエーヴ・ビジョルド独演会映画というのがある。かのマイケル・クライトンがロビン・クックの同名の原作を映画化した「コーマ (1977)」である。昏睡状態に陥った患者の臓器を密売している組織とその秘密に気づいた女医の戦いといったような内容で、強いて分類すれば医学サスペンスとでもいうことになるのだろうが、見ていた限りでは最初から最後までジュヌヴィエーヴ・ビジョルドが一人でどたばたと暴れているだけだった。解剖用の死体の下敷きになって大騒ぎするわ、組織に追われればどうやったのか天井裏に飛び込むわ、車が壊れればタイヤを蹴り飛ばすわ、怪しい救急車がいればその屋根に掴って歯を食いしばるわ、とにかく大活躍で、映画の出来は最低だけどジュヌヴィエーヴ・ビジョルドが元気なのでつい許してしまうことになる。時々、悲劇の女性を演じるけれど、基本的にはコメディが似合う人なのではないだろうか。 追記:大蟻食著「ブーイングの作法(四谷ラウンド,1999)」を見たら上の疑問に対する答えがちゃんと書いてあった。 アマンダ・ペイズ 「パスカリの島(1987)」という凝った映画がある。オスマン・トルコ領内の島に住む帝国の密偵が島を訪れた英国人考古学者と友誼をかわし、そうしながら次第に疑心暗疑に陥っていくという内容で、いくら報告書を送っても当局から何の返事ももらえない疎外された密偵という役をベン・キングズレーが好演していた。虚しく積み上げられた報告書の山の悪夢などは実に秀逸であった。この映画の監督ジェームズ・ディアデンの処女作が「コールド・ルーム(1983)」で、これは冗談抜きによくできた怪談である。父親とともに東ドイツに引っ越してきた英国人の女子高生が、間借りした部屋で旧ドイツ時代のユダヤ人迫害に関わる霊現象と遭遇するという話で、かなり怖い(実を言うと見ている間はそうでもなかったが、思い出すと怖い。視覚表現が理詰めなせいであろう)。 さて、父親ジョージ・シーガルに連れられてきた女子高生がアマンダ・ペイズなのである。いかにも成長過程という感じでまだどこか伸び足りない、いささか収まりの悪い美少女という具合に見えたものだが、ところがそれが完成状態のアマンダ・ペイズなのであった。もし不格好な美女というものがいるとすれば、たぶんアマンダ・ペイズがそうなのであろう。顔を見れば細すぎるし、その割には鼻が大きすぎる。目はぱっちりとしているが、視線は少々厚かましい。どうもバランスが悪いのである。さらに問題をあげれば大根女優でもある。何をやっても同じなのだ。最低だったのは「リバイアサン(1989)」であろう。どんな学芸会でもあれよりはましだった。それでもわたしが劇場まで足を運んだ理由の一つには、アマンダ・ペイズが出ているから、というのがあったのである。それだけではない。同じ理由で「フラッシュ(1990)」を、その続編を含めて見ているのである。それどころかあのたいしたこともない「サイゴン(1988)」まで見ているのである(スコット・グレンはよかったけれど)。これはいったいどういうことなのか? たぶん理由は「キンドレッド(1986)」にある。英国製ホラーの傑作で、出演はアマンダ・ペイズのほかにキム・ハンター、そしてなんとロッド・スタイガーという豪華版。中身は遺伝子操作で人体を海洋生物に変形させるという筋金入りのゲテモノである。ありきたりのストーリーだが、それでもこの映画が傑作なのは描写がとにかく念入りなことにある。あのロッド・スタイガーを粘液まみれにしてしまうだけではなく、アマンダ・ペイズをグロテスクな半魚人に変身させてしまうのだ。こちらとしてはもう、恐れ入りましたと頭を下げる以外になす術がない、そんな映画だったのである。そうなったらもう、次は何に変身するかわからないので、後はただアマンダ・ペイズを追いかけるだけ。 メグ・フォスター シャーロット・ランプリングが非常にうまく使われたB級女優だとするならば、メグ・フォスターはたぶんB級のシャーロット・ランプリングなのである。シャーロット・ランプリングからエキセントリックな要素を取り除き、ちょっと顔の幅を広げて丸みをもたせ、さらに骨格を目立たせるとメグ・フォスターができあがる。魅力的ではあるが、どちらかと言えば隣の奥さんといった風情であろうか。ペキンパーの遺作となった「バイオレント・サタデー(1983)」にルトガー・ハウアーの女房役で出演していてるが、印象と言えるような印象は残らない。ジョン・ブアマンのあまり顧みられない佳作「エメラルド・フォレスト(1984)」にはパワーズ・ブースの女房役で出演していたが、亭主同様に印象と言えるような印象は残していない。凡庸な女優なのである。それでもなんとなく思い出すのはメグ・フォスターにはシャーロット・ランプリングにはない安定した暖かみのようなものがあるからではないだろうか。ジョン・カーペンターの「ゼイリブ(1988)」で人類の裏切り者を演じた後、「ステップファーザー2(1989)」ではまた家庭に戻っていた。もしかしたら「理想の奥さん」女優なのかもしれない。そういうタイプ(と決め付けてしまうが)なので、「リバイアサン(1989)」の冷酷な管理職といったような役はまるで向いていないし、ほとんど嫌味にしかなっていない。しかもそれをわたしの大嫌いなピーター・ウェラーがぶん殴るときては、ほとんど喧嘩を売られているようなものだ。 キャロライン・マンロー チャンバラ吸血鬼映画「キャプテン・クロノス/吸血鬼ハンター(1973)」でキャロライン・マンローは晒し台に括り付けられた状態で登場する。そしてキャプテン・クロノスが晒されている理由を尋ねるとこう答えるのだ。 「日曜日に踊ったの」 キャロライン・マンローは永遠の不良少女なのである。それも今風に痩せこけて世の中を斜めに見ている不良少女なのではなく、豊満なボディの上に文句あるかという自信を載せたエレガントな不良少女なのである。娼婦の役をやっても妙に前向きに見えてしまうので不健康な感じが全然しない。「シンドバッド黄金の航海(1973)」ではちょっと大人しくしていたが、「007 わたしを愛したスパイ」では煩悩全開のような姿態をさらした上に、ロジャー・ムーアのロータス・エスプリをヘリコプターで実にしつこく追っかけまわしていた。基本的にはB級映画の脇役辺りにいることの多い女優だが、主演している映画もちゃんとあって、それがスペース・ファンタジー「スタークラッシュ(1978)」。イタリア映画としては大作で、音楽はなんとジョン・バリー、銀河皇帝の役にはクリストファー・プラマーを引っ張ってきている。はっきり言って駄作である。駄作ではあるが、そんなことはどうでもいい。実はこれ、キャロライン・マンロー鑑賞映画なのである。なにしろ零下1000度(!?)の酷寒でも、キャロライン・マンローはレザーのビキニを着ているだけなのである(いちおう理由は説明していたけど)。いやはや、思い出すだけでも手元が狂って、書いていることが支離滅裂になる。もうやめよう。 |