男優の話 エドワード・フォックス 中学一年の時に「ジャッカルの日(1973)」を見た。この映画で暗殺者を演じていたエドワード・フォックスを見て、この上なくかっこいいと思った。役者の演技を見てかっこいいと思ったのはこれが生まれて初めてのことで、ハンサムでダンディで所作がストイックで、これがつまり紳士なのだと思ったものである(そしてあまりにも心を乱されたので原作のささいな部分からジャッカルが実は単なるスノッブであるという記述を見つけ出して安心もしていた)。最初に劇場で見て、その後、現在に至るまで何度も見てきたが、たいしたもので最初の印象は変わらない。しかしながらこれはエドワード・フォックスという役者がすごいというよりも、ハンサムでダンディでストイックなこの映画がすごいということになるのかもしれない。 本人はいわゆる紳士階級の出身ではないと聞く。しかしどことなくノーブルな風情のあるあの容貌は英国人が見ても紳士的ということになるようだ。イギリス映画の中でも、たとえばジョゼフ・ロージーの「恋(1971)」では見事に燕尾服を着こなして登場した(燕尾服のあの尻尾は椅子に座る時には手で跳ね除けるのだということをエドワード・フォックスの演技で知った)。「空軍大戦略(1969)」ではイギリス人なのにフランス語が話せる教養ある戦闘機パイロットという役で、この映画では一人で英国紳士のたしなみのごときものを代表していた。実の兄弟でやはり役者のジェームズ・フォックスも似たような顔をしていて、こちらはこちらで「パトリオット・ゲーム(1992)」では英国の王族をやっていたからつまりそういう顔なのだろう。ちなみに同じような顔をしていてもジェームズ・フォックスの方にあまり関心がないのは、こちらは少し鈍重な感じがするからである。エドワード・フォックスの方がこじんまりして、引き締まっている。 エドワード・フォックスが主演格で出ている映画はあまりない。強いて言えば「ジャッカルの日」がそうだが、これも主演ということにはなっていない。基本的には脇に回って画面を締める役の方が多いようだ。「遠すぎた橋(1977)」はオール・スターの大味な戦争映画だったが、エドワード・フォックス扮する陽気なホロックス中将だけは光っていた。とにかく元気で陽気で、似たような将官があと3人もいて疲れた兵士を叱咤激励していれば橋は決して遠すぎはしなかったと思えるくらいだ。 エドワード・フォックスを出せば画面が締まると考えているのはわたしだけではないようで、その証拠にリチャード・アッテンボローは「遠すぎた橋」に続いてあの大作「ガンジー」にもエドワード・フォックスを呼び、インド人虐殺を命ずるダイヤー将軍の役でちょっとだけ出演させている。リドリー・スコットも「デュエリスト(1977)」で後半でちょろっと顔を出すボナパルト派の大佐の役をエドワード・フォックスにやらせている。「ネバーセイ・ネバーアゲイン(1983)」のMもよかったし、それ以上に嬉しかったのはジョン・アーヴィンの「ロビン・フッド(1991)」で、ほんとうに最後の方で顔を出すだけだがジョン王の役をやっていた。いかにも堕落した倣岸な王という感じで馬に乗っていて、これは名演であったと思う。同じように短い出演シーンということになるとほかにもメル・ギブスンがクリスチャン航海士をやったディノの大作「バウンティ/愛と死の反乱(1984)」があるが、この映画のエドワード・フォックスはよくなかった。本人に問題があったというよりも撮影そのものがぞんざいにおこなわれていたという印象がある。「ロスト・イン・スペース(1998)」での使い方も好きではない。 もう少し出演場面が多い作品ということになると、かなり個人的な趣味に傾くのだが「ナバロンの嵐(1978)」と「ワイルド・ギースII(1985)」をあげたい。将官や貴族の役が多いエドワード・フォックスが「ナバロンの嵐」では珍しく伍長で、爆破の専門家という役をやっていた。ロバート・ショー扮するマロリー少佐の命令をどんどん勝手に先読みしてどんどん爆破していくミラー伍長の役は決してはまってはいなかったが、本人はとても楽しそうにやっていたものである。「ワイルド・ギースII」と1978年の一作目「ワイルド・ギース」との間の共通点は傭兵が主人公でプロデューサーが同じユアン・ロイドだという二点しかない。この映画でエドワード・フォックスはマラリアの後遺症を持つ狙撃の名手という役をやっていて、その超人的な狙撃ぶりがとにかくすごかった。 余談になるが「アリーmyラブ」でアリーが所属している弁護士事務所のリチャード・フィッシュ役をやっているグレッグ・ジャーマンという役者がエドワード・フォックスのコミック・バージョンという雰囲気があって実はけっこう好きだったりする。同じ理由で顔が気に入っているのは「グレムリン2」で不動産王クランプをやっていたジョン・グローバーで、「デス・ポイント/非情の罠」のチンピラぶりなどが実に様になっていた。エドワード・フォックスの顔はキツネ系なので、ちょっといじると小者悪役系にぴったりということになるのかもしれない。顔というのは奥が深い。 デビッド・ワーナー デビッド・ワーナーとエドワード・フォックスはジョゼフ・ロージーの「人形の家(1973)」で共演をしているらしいのだが、実を言うとこの映画はまだ見ていない。ジェーン・フォンダとデルフィーヌ・セイリグという組み合わせがちょっと怖いからかもしれない。 わたしにとってエドワード・フォックスが言わば「かっこよさ」の代名詞ならば、デビッド・ワーナーは「かわいい」の代名詞なのである。体格から言えばデビッド・ワーナーは大男の部類に入る筈だし、顔つきも身体つきもけっこうごつごつとしていて、「かわいい」という表現がそのままファンシーであることを意味するならば、その対極にいるような人になるのだろう。でもかわいいのである。もちろんわたしはファンシーなかわいらしさとそれ以外のかわいらしさは各種中間の領域も含めて一応ちゃんと見分けているので、わたしが「かわいい」と言えばそれが全部デビッド・ワーナーのような姿をしているというわけではない。 さて、それではデビッド・ワーナーのかわいらしさはどこからくるのか、ということになると少々困るが、あの大きな身体をぬぼーっと立てていささかやぶ睨みにも見えるあの目で状況の行く末をそっとうかがっている、その日和った風情がなんとなくかわいらしいということになるのだろうか。その有様がまたどことなく重たそうなので、どんな運命でも受容するようなはかなさも漂っていて、それもまたかわいい、ということになるのかもしれない。腹に一物持った迷子の小犬という感じなのである。 おそらくこの辺りの印象は一連のペキンパー映画(「砂漠の流れ者(1970)」、「わらの犬(1971)」、「戦争のはらわた(1977)」)から引き出されているのだと思う。 「砂漠の流れ者」では何を考えているんだかわからない、何かしそうなにの何もしない怪しい説教師という役だったし、「わらの犬」では無法者に追いつめられた知的障害を持つ青年という役でこれは文字どおりの迷子だったし、「戦争のはらわた」では明らかに何かしたいのに何もできないという役で、ここに至っては「未来に何かするために生き延びろ」という上官ジェームス・メイスンの命令で、遂に何もしないまま退場してしまう。サム・ペキンパーという監督にはキャラクターを二捻りして観客を惑わせる癖があるが、それだけにただ立っている(あるいは座っている)だけで内面の捻りを感じさせるデビッド・ワーナーという役者をうまく使っていると思うのである。 ペキンパー級にデビッド・ワーナーをうまく使った監督がニコラス・メイヤーで、映画は「タイム・アフター・タイム(1979)」。デビッド・ワーナーはここでは切り裂きジャックに扮して友人H・G・ウェルズ(マルカム・マクダウェル好演)が発明したタイムマシンを使って現代サンフランシスコに逃亡するのである。追いかけてきたウェルズが自分の理想主義を現代社会に引き比べてうろたえる一方、あっという間に適応を果たす切り裂きジャックの対比が面白かったが、ニコラス・メイヤーはこの切り裂きジャックにデビッド・ワーナーを据えることで自動的に深みを与え、適応もまた思考の結果であるように見せることに成功している。悪役に徹していても何か考え込んでいるような風情があるので、このような場合には実に便利な役者なのである。 とはいえ役者のキャラクターについて観客がこのような思い込みをしてしまうと、ちょっと困ることもある。「エアポート80(1979)」という映画があって、いわゆるエアポート・シリーズの中でもコンコルドを舞台にした異色作である。発展的に異色になったわけではなくて、ネタに詰まった結果として異色になった気配が濃厚で、出来の方はよろしくない。そのコンコルドのコクピットに入っているのが機長アラン・ドロン、副操縦士ジョージ・ケネディ、そして機関士にデビッド・ワーナー。ストーリーは言ってみれば謀略物だし、単細胞なわたしは経験的に、この機関士はきっと何か腹に一物持っているに違いない、いや、もしかしたら何かするかもしれないとずっと期待して見ていたが、とうとう最後まで、怪しい気配すら匂わせなかったのである。ただ黙々と仕事をしていただけだった。これにはいたく失望した。余計なことを考えていたわたしが悪いのかもしれないが、デビッド・ワーナーという見るからに考え深そうな役者を思考を停止したような役に振るのはやっぱりちょっとどうかと思うし、それは自然に反することだと感じるのである(本人がまるで役を選んでいないという問題は別としても)。だから「トロン(1982)」や「タイタニック(1997)」を見ると、困ったことに監督のセンスの方をまず疑ってしまう(特に「タイタニック」。なんだ、あの使い方は)。ニール・ジョーダンはあまり好きな監督ではないが、この辺りはちゃんと分かっている人で、「狼の血族(1984)」ではデビッド・ワーナーに赤頭巾ちゃんのなんとなく怪しい父親という役をやらせていて、いきなり花をぱくりと食べさせているのだ。いや、ウルリッヒ・エデルの傑作「ラスプーチン(1996)」では置物も同然の役だったが、それでもデビッド・ワーナーはちゃんとデビッド・ワーナーしていたではないか。問題はやはりセンスであって、こちらの思い込みではない。 さて、こちらの勝手な思い込みに即してデビッド・ワーナーによるデビッド・ワーナーを探すと、まず最初にあがってくるのが「失われた航海(1979)」になる。これはタイタニックの沈没事故を二等船客を中心に描くという珍しい映画で、デビッド・ワーナーは教師の役をやっていた。中流階級で教育を受けていて、しかも教師だから温厚で紳士的、ただ二等なので一等への羨望は隠して三等への偏見は隠さない。人間だから欲望があり、その欲望に対しては不器用にしか振る舞えないという役柄を絶妙に演じていた。世界は内面の苦悩の中へ深く沈潜するので、外界で現に乗っている船が阿鼻叫喚とともに沈みかけているという事実も重要ではないのである。こういう人はこう助かるという読みが鋭くて、映画そのものも好感度が高い。 もう一つはテリー・ギリアムの「タイム・バンディッツ(1981)」。ここではデビッド・ワーナーは何やら奇怪な風体の大魔王を演じていたが、この大魔王がデビッド・ワーナー流に悪役全開なのである。つまりデクノボウが悪に奉仕するのではなく、大魔王という個人がその内面に抱えた悪への渇望をえぐるように取り出してくる。悪事はあらかじめ形を取って与えられているのではなく、精神の葛藤を経て紡ぎ出されるものなのである。そして遂にそれが形を取って現われると、大魔王は感動してこう叫ぶことになる。 「悪い気分になってきた」 これは魂の叫びだ。それこそ勝手な思い込みかもしれないが、この映画のデビッド・ワーナーは実に幸せそうに見えたものだ。 ジョン・ハート 実を言うとわたしは自分がジョン・ハートに似ていると考えていたことがある。容貌ではなく雰囲気が似ているという話で、いつどこでそう思い込んだのかは定かではないが、察するにジョン・ハートのどことなく疎外感を漂わせた風情に自分を重ねあわせていたのではあるまいか。うちの大蟻食に言わせれば、どのような風情を漂わせていようとジョン・ハートはどちらかと言えば小悪党の顔をしていて、したがってわたしとは違っているということになる。大蟻食の見解では、わたしは小悪党よりももう少し冷淡な人間に見えるのだそうだ。ジョン・ハートにも迷子の小犬を見出していたわたしとしては納得できる説明ではなかったし、冷淡に見えるといわれても嬉しいことは何もない。信じたわけではなかったが、10年にもわたって違う似てないと言われ続けるとさすがのこちらも刷り込まれてきて、そうか似てないのか違うのかと思うようになる。というわけで今では自分がジョン・ハートに似ているとは考えていない。 事実から言えばたしかにジョン・ハートは小悪党を演じることが多い。人間的な弱みが厚くもない面の皮の下に透けて見えるようなせこい悪党を演じることが多いのである。デビッド・ワーナーもまた悪役を演じることが多いのだが、こちらが内面の問題とともに佇んでいるように見えるのに対して、ジョン・ハートはどうやら軽挙妄動をする。時に見せる被虐的とも言える疎外感は実は存在の結果としてではなく、本人の軽率な行動の結果として与えられているものだったのである。思い出してみるとデビュー作でフレッド・ジンネマンの傑作「我が命つきるとも(1966)」ではポール・スコフィールド扮するトマス・モアの周辺をごそごそ嗅ぎまわっていたし、初の主演作であるジョン・ヒューストンの「華麗なる悪(1969)」ではゴルフのボールがたまたま頭に命中して捕まる間抜けな追い剥ぎという文字どおりの小悪党をやっていた。リチャード・フライシャーの「10番街の殺人(1971)」では文盲の職工でリチャード・アッテンボローの不気味な大家に連続殺人の濡れ衣を着せられる犠牲者という役だったが、底の割れそうな虚言ばかりを繰り返している落ち着きのない小者でもあった。恐ろしいことにこの視点で見直すと「エイリアン(1979)」の副長や「エレファント・マン(1980)」ですら小悪党に見えてくる。そしてさらに見えてくるのは外形的な事実を備えた小悪党ではなく、下積みの鬱屈を備えた人間なのである。抑圧を受けている人間を演じさせたらジョン・ハートの右に出る者はない。 というわけで「1984(1984)」の話になる。ジョージ・オーウェルの「一九八四年」を1984年に撮ったというまるで縁起担ぎのような映画だが、傑作である。監督のマイケル・ラドフォードから主人公ウィンストン・スミスの役をオファーされた時、ジョン・ハートは二つ返事で引き受けたという。スターリン主義がはびこる世界に生きる「最後の人間」という複雑な役は二つ返事で引き受けられるものではない。この時ジョン・ハートが「ウィンストン・スミスはわたしだ」と言ったというような話も聞いたことがある。そして実際、ジョン・ハートはウィンストン・スミスそのものなのであった。 過去が変幻し個人は抹殺され思考手段である言語までが取り上げられようとしている世界で、最後の人間ウィンストン・スミスの肉体が滅んでいく。純粋であることを拒んで個人に拘泥し、未来を拒んで過去を記そうとした罪である。口から出る賛同は常に偽りであり、したがって食卓に出現する未来の食物は「濃厚すぎて」口に合わない。その存在に救いはなく、精神は堕落の縁に立ち、肉体は老いた世界に属しているので思うように動かない。体操の場面は巧みにこの外界からの隔絶を強調する。そしてこの老いた人間は集団としての浄化に逆らって個人としての堕落を選び、わずかな希望にすがって反体制運動の徴を探し出す。それは愚かな過去の人間の行動であり、未来を塞がれているのでその先はない。この世界は偽りで満たされている。愛が語られるのはそれが真実だからではなく、それが過去に属しているからなのである。 限りなく陰鬱で限りなく美しいこの映画は、友人の意見をそのまま借りれば「ジョージ・オーウェルはいい原作を書いた」と言えるほど原作を越えている。しかし、その成功もジョン・ハートという役者がいればこそであり、肉体も含めて主人公になり切ってしまったこの名演技は歴史の排泄物としての個人を否応もなく感じさせ、見る者に感動を与えずにはおかない。 と、このようにジョン・ハートは魂の陰影を極めて世界の暗黒面に属しているような気配もなくはないが、ジム・ヘンソンの「ストーリー・テラー(1987)」ではでっかい耳をつけてお話おじさんに徹している。世にも美しい映像にジョン・ハートの情感溢れる語りがついていて、何度でも見たい素晴らしい作品である。 ジョナサン・プライス ジョナサン・プライスは天下の名優である。そして天下の名優の多くがそうであるように決定的な一本というのがない。その姿を最初に見たのはテリー・ギリアムの「未来世紀ブラジル(1985)」で、ここでは夢見る主人公サムを演じていたが、実を言うとたいした印象が残っていない。この映画に対するわたしの評価がかなり低いということも多少は関係しているのかもしれない。しかしよく考えてみると主人公サムは空想の世界に半ば以上足を突っ込んでいる取り柄のない青年であり、そうした取り柄のない青年が観客の目に必要以上の印象を残す筈もないのである。とすればジョナサン・プライスは役柄そのままに演じていたということになるわけで、つまり名優とはそういうことを意味している。 次にジョナサン・プライスを見たのは同じくテリー・ギリアムの「バロン(1988)」で、この映画ではトルコの軍勢に包囲されている街の悪い文官を演じていた。黒眼鏡をかけて黒マントを羽織り、18世紀だ、理性の時代だということで人類の悪しき理性をうきうきと代表するこの文官に、「ブラジル」の青年サムの面影を認めることはできなかった。なにしろこいつにかかると敵中に単身切り込んだ英雄(カメオ出演のスティング)も理性に反するというそれだけの理由で死刑にされてしまうのである。なんだか知らない役者が乗りまくってやっている、これは誰だということでエンディング・クレジットをじっと見つめ、どうやらジョナサン・プライスという名前らしいというところまで突き止めたが、情けないことに「未来世紀ブラジル」の主演が誰だったかなど覚えていなかったので、結局うまい具合にはつながらない。つなげるためには「贖われた七ポンドの死体(1985)」を見なければならなかった。 舌の絡まりそうな凝った邦題がついているが、原題は「医師と悪魔」という実にシンプルなもので、監督はわたしの好きな「悪魔の植物人間」のフレディ・フランシスである。ハマー・プロで多くの作品を作っているほか、撮影監督として「エレファント・マン(1980)」や「デューン(1984)」、「ケープ・フィアー(1991)」などに参加している。 「贖われた七ポンドの死体」は19世紀最暗黒期のロンドン、特にソーホーを舞台にした陰惨な殺人劇である。ティモシー・ダルトン扮する医師が死体解剖の医学的な価値を説く場面から始まり、医師は自説にしたがって解剖をおこなうために死体を捜し、そして死体に値をつける。一方、貧民窟の男ファロンは無価値である筈の死体に金銭的価値があることを知り、墓荒らしに手を染め、やがて金欲しさから死体製造を試みる。 ファロンを演じていたのがジョナサン・プライスである。貧民窟というそれでなくても人心を荒ませる場所に巣食うごろつきとしてまず登場し、すでにして狂暴な気配を漂わせているのが7ポンドという言わば大金に目がくらみ、欲望のとりことなって野獣と化して自分の愛人にまで襲い掛かる。最後の方になると目付きが本当に人間ではなくなっていて、そこらのサイコ・キラーも裸足で逃げ出すほどの迫力があった。映画で役者の演技を見ていて「こいつ大丈夫か」と心配したのは後にも先にもこれ一度きりである。 あまりにも立派な演技だったのでフィルモグラフィーをちょっと調べ、それでやっとこちらも話がつながった。おかげで顔を見ればわかるようになったし、ジョナサン・プライスが出ているから、という理由で映画を見ることもある。ただイギリスの役者の例にもれず出演作はかなりあって、見ているのはそのごく一部に過ぎない。その範囲では今のところのジョナサン・プライス一押しはこの「贖われた七ポンドの死体」になるようだ。「エビータ(1996)」ではマドンナの亭主、つまりアルゼンチンの独裁者ペロンをやっていたが映画同様冴えなかったし(それとも本当に冴えない独裁者だったのか)、「007 トゥモロー・ネバ・ダイ」ではなんとジョナサン・プライスが悪役をするということで勇んで見にいったがこれも映画同様に冴えなかった(冴えない悪役ということだったのかもしれない)。悪役ということなら「RONIN (1998)」でもやっていたが、これも中途半端な悪党にしか見えなかったのである(つまり中途半端な悪党の役だったのだ)。「七ポンドの死体」級に吹っ飛んでいるジョナサン・プライスの名演技をまた見てみたい。 サム・ニール フィルモグラフィーを見てみたら、サム・ニールがアンジェイ・ズラウスキーの「ポゼッション(1980)」に出ていたということを知った。まるで覚えていないのである。イザベル・アジャーニのヒステリー演技とカルロ・ランバルディのタコばかりが目立つ退屈な映画だったので、これは仕方がないのかもしれない。 サム・ニールの容貌は言ってしまえば現代風に弛緩した60年代型ハンサムという感じで、強いて言えばJ・F・ケネディの出来損ないといったところであろうか。あまり血筋のよろしくないエスタブリッシュメントといった風情があって、そのせいなのか、「オーメン/最後の闘争 (1981)」では成長して大人になった悪魔の申し子という役をやっている。とはいえ「オーメン2/ダミアン(1978)」のあの美少年がどう成長すればこうなるのかという公開当時の巷の批判がけっこうあったのを記憶しているし、映画も冴えなかった。サム・ニールはただ出ているだけ、劇中で唯一スリリングだったのはキツネ狩りの場面(撮影がすごい)だけという有様で、監督のグラハム・ベイカーについてもこの映画ではなくメグ・ティリー主演の「インパルス(1984)」を見て評価した方がいい。 「オーメン/最後の闘争」以降、サム・ニールはかなり多くのテレビ映画に出演している。それがジェフリー・アーチャー原作だったりアーサー・ヘイリー原作だったりという具合で、この辺りは断片的にしか見ていないのだが、察するにあの容貌は扱いやすいということにでもなっていたのであろう。ところが本人はそれでは気に入らないようで、時々思い出したように妙な映画に出て妙な役をやることになる。一種の役者根性なのかもしれないが、おかげでこちらもサム・ニールは妙な役者だという印象を刷り込まれることになり、ただ出ているというだけで妙な期待を抱いてしまう。つまり「ジュラシック・パーク (1993)」の古生物学者のように無難なだけの、あるいは「スノーホワイト (1997) 」のシガーニー・ウィーバーに食われるだけのサム・ニールというのはあまり見たくないのである。 妙な映画の妙なサム・ニール体験は、わたしの場合まずジョン・カーペンターの野心作「マウス・オブ・マッドネス (1994)」に始まる。恐怖作家ユルゲン・プロホノフによって書かれた世界が現実に出現し、作家の居所を探る保険調査員サム・ニールは見つけだした作家から自分もまた小説に書かれた人物であると知らされて現実と架空の境界を見失い、狂気に陥っていくというような内容だが、残念ながらその狂気が狂気に見えなかった。どちからと言えば、アルコール中毒の譫妄症に近いのではあるまいか。クレヨンで書かれた無数の十字架もひどく唐突に思えるのである。私見だが、このような場合、狂気の文脈はもう少し整っていなければならない。それはそれとしても狂気に侵されたサム・ニールの目つきはなかなかに凄いものであった。ちなみにこの映画にはデビッド・ワーナーが医師の役で登場するが、正しいデビッド・ワーナーではない。さらに看護士か何かの役でジョン・グローバーも出ていて、こちらはよろしい。精神病院の館内放送でいきなりカーペンターズを流し始めるこの奇矯な人物は、この映画の中でいちばん異常に見えた。 「マウス・オブ・マッドネス」では脅えているだけだったサム・ニールが一転して攻撃に転じたのが傑作「イベント・ホライズン (1997) 」である。超空間航法を備えた人類初の宇宙船イベント・ホライズン号が遭難し、数年を経て戻ってくる。サム・ニールは超空間航法を開発した科学者としてレスキュー隊とともに原因調査に乗り込むが、宇宙船の船内には悪意と亡霊が跋扈している。なんとイベント・ホライズン号は地獄に行って帰ってきたのであった。ということで乗り込む前から自殺した女房の亡霊を抱え込んでいる科学者サム・ニールはあっという間にあちらの世界の住人となり、いきなり自分の目玉をくり抜いてとても口では言えないような独演会を始めるのである。見ているこちらがここまでやってこの人恥ずかしくないのかと心配するほどの怪演であった。「マウス・オブ・マッドネス」で飛ばされていた物がここには全部揃っていて、とてもお得な一本である。 しかし妙なサム・ニールということで考えると、その最高作はオーストラリア製のけったいな映画「革命の子供たち (1996) 」であろう。「セレブリティ(1998)」でケネス・ブラナー/ウッディ・アレンの神経症的な女房をやっていたジュディ・デイビスが神経症的な上に狂信的なオーストラリアの共産主義者に扮していて、これが憧れのスターリンと会見して一夜を共にし、ついでに種をもらってきて男の子を産み落とすという恐ろしい話だが、ここでサム・ニールはオーストラリア駐在ではなく在住のKGBという役をやっていたのである。ところがこれが実のところ何者で何を考えているのかほとんどわからない。ジュディ・デイビスとその子供の成長過程のあちらこちらに出没しては奇怪なことをして帰っていって、最後にはKGBの制服を着て自殺をしてしまう。いや、ただただ怪しい男なのであった。 |