ボウリング・フォー・コロンバイン
- Aloysius' Rating: 5/10
Bowling for Columbine(Canada/USA/Germany 2001,120min.) [D/W] Michael Moore, [C] Michael Moore

1999年の4月、コロラド州リトルトンのコロンバイン高校で起こった乱射事件を題材に「ジャーナリスト」マイケル・ムーアが銃社会としてのアメリカを問う。マイケル・ムーアの説明によるとアメリカでは歴史的に恐怖が培われていて、それは清教徒の迫害に始まって東部海岸における教父たちの神権政治に引き継がれ、奴隷制が普及してからは黒人への恐怖心へと発展して、その表象はクー・クラックス・クランを経てやがて全米ライフル協会へと姿を変えているようなのである。歴史的に培われた恐怖心は現在ではメディアによって煽られていて、アメリカのニュース番組は率先して暴力犯罪を報道しているが、現実には犯罪は減少傾向にあり、国民は誤った情報を与えられている。隣のカナダではアメリカ同様に銃器所持がふつうにおこなわれているが、メディアが暴力を煽っていないので殺人事件はあまり起こらない。そしてマイケル・ムーアの別の説明によるとコロンバイン高校の事件と、その直前にユーゴで実施された最大規模の爆撃とは決して無関係ではない。学校があるリトルトンにはロッキード社の工場があって、ミサイルが製造されており、生徒の親の多くはこの工場に職を得ているだけではなく、ミサイルはこどもたちが寝ている時間にその枕もとを通って搬出されているからであった。もちろん原因はメディアや兵器産業だけではない。犯人に弾薬を売ったKマートにも責任があるし、人種差別にも貧困にも原因がある。ミシガン州フリントで起こった六歳児による六歳児射殺事件は貧困が引き金を引いたのであり、ロッキード社は貧困救済のためのプログラムを実行しているが、そのプログラムは長距離通勤という害だけを与えている。
マイケル・ムーアの方法は知的でもないし公正でもない。情報は断片的で説明はいつも不足しており、全体に一貫性が乏しくて医療保険制度の不備までが思いついたように槍玉に上げられる。複雑な問題を扱っているから、というよりも素材を感覚的に投げ出しているだけなのであろう。主要な目的は消費者主導の市民社会を理想化することと、国家権力と巨大企業を攻撃することにあったようだ。それが悪いとは言わないし、2時間を飽きさせずに見せるセンスは認めざるを得ない。しかし、メディアが有害なフレームを使っていると非難しながら、反撃のために同じフレームを使っているという事実は指摘しておかなければならないだろう。情報はここでも意図的に選択されているのである。
あと、マイケル・ムーアは顔を出しすぎ。全米ライフル協会会長チャールトン・ヘストンとの会見の最後の部分に注目すると、この記録映画の本質がよくわかる。背を向けて退場していくチャールトン・ヘストンに、マイケル・ムーアはフリントで射殺された六歳の女の子の写真を見せようとする。チャールトン・ヘストンはちらりと振り向くが、そのまま歩いていってしまう。カットが変わると、マイケル・ムーアは残念そうな表示を浮かべてその姿を見送っている。その場で撮影に使われたカメラはおそらく一台だけである。これはいったいどうやって撮影したのか。カメラが慌しくパンをして、立っているマイケル・ムーアと去っていくチャールトン・ヘストンをワンショットに収めるのはその次のカットなのである。立っているマイケル・ムーアはチャールトン・ヘストンが立ち去ってしまってから撮影したのではないだろうか。別にマイケル・ムーアのメッセージに反対しているのではない。政治的なメッセージが咀嚼しやすいように調理されている場合、そこに加えられた手間がどのようなものであるかは、いちおう調べた方が安全だと考えているだけなのである(口座を開くとライフル1挺プレゼントっていう銀行の話はおもしろかったけどね)。